原爆ドーム2011/05/16


震災後2カ月、津波による被害も甚大ですが、
今なお福島原発は予断を許さない状況。
このブログを書いてる時もメルトダウンがあった事が発表されてる。
結果論かもしれないが我々は過去から何も学んでないのかも知れない。

原爆と原発は違うと言う人もいるかもしれないが、
そんな事は無い。核の脅威は同じだと思う。
平和の名のもとに一瞬にして大勢の命を奪い去った核。
偽りの安全、想定外の出来事?で多くの平穏を奪い去った核。
原爆投下から66年たった今でも、人類は核の力を扱えるほど進歩していない。

そして、そんな今だから訪ねてみたかった場所。
昨年は長崎へも行ったのだが今年はここ広島。
今では長崎も広島も核兵器廃絶、人類の恒久平和のシンボルだけど、
今だからこそ復興のシンボルとも言えないだろうか。
核の被害から立ち直った街である。
瓦礫の中から見事な復興を遂げた街である。
今一度その歴史を顧みて明日への希望を見つけたいと思う。

路面電車に乗り原爆ドーム前に到着。4ヶ国語で書かれている
原爆ドーム駅の案内表示。世界中から大勢の人がやって来るのだ。

敷地入口には慰霊碑。献花や供物が絶えることは無い。


世界遺産 原爆ドーム。
人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として
また、核兵器廃絶と恒久的平和を求める誓いのシンボルとして
「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」
に基き世界遺産一覧表に記載された。平成8年(1996年)12月7日広島市
※世界遺産 原爆ドーム 碑文まま

世界遺産への登録の以前から保護され、永久保存を約束されていた。
但し原爆投下という悲惨な事実を後世の人類への戒めとして伝えるためである。

あらためてまじかで見ると存在感に圧倒される。
元々の原爆ドームは1915年(大正4年)4月5日に竣工、
同年8月5日に広島県物産陳列館として開館。
様々な催し物が開催されていたそうだが、長引く戦争のさなか
被爆前年の1944年には内務省中国四国土木事務所として
使用されていた。

昭和20年8月6日朝8時15分17秒。この建物の直上600mで
総重量4トンの原子爆弾「リトルボーイ」が爆発し、20万人以上の命が奪われた。

そして半径2Kmに及ぶ市街地は瓦礫で埋め尽くされた廃墟と化した。


中の瓦礫も当時の物なのだろう。
出来る限り当時の状態を残す事が求められている。
それは綺麗に残すより難易度が高い。

復興が進む1960年代、風化が進み悪い記憶がよみがえると言われ
一時は取り壊しの危機にさらされた事もある。
しかし、それを止めたのが一人の女子高生。楮山ヒロ子さんの日記。
ヒロ子さんは一歳の時に被爆し15年後「あの痛々しい産業奨励館だけが、
いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」と書き遺し
急性白血病で短い人生を終えた。

その後、彼女の言葉に感銘を受けた人々の保存を求める運動が始まり
1966年に広島市が永久保存を決定したのである。

暫くは広島市だけで保存・管理が行われていたが、
1995年に国史跡に指定、翌年にはユネスコの世界遺産に登録。
世界遺産とはいえ「負の世界遺産」である。人類が再び過ちを犯さないための警鐘として。

原爆設計者の一人である物理学者オッペンハイマーは最初の原爆実験成功後
ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」から引用し言った。
「我は死なり、世界の破壊者なり・・・」自ら切り開いた科学の進歩が
生み出した破壊兵器におそれ慄いたのだと思う。そして、こうも言っている。
「世界の人々は一つに結ばれなければならない。さもなくば人類は滅びるであろう」

そして震災後の我々に求められているのも一つに結ばれる事。
被災者の方はひとかたならぬ苦労がある事と思う。
今は復興もままならぬ上、原発問題が重くのしかかっている。
しかし、我々は一人では無い。日本中の人たちはもとより、
世界中の人たちが震災からの復興を願っている。
出来る限り早く元の平穏な生活が戻るよう願い続けている。
この街を見よ!原爆投下後、75年は草木も生えないと言われた広島や長崎は
66年たった今見事に再生している。当たり前だ。ここで終わる訳にはいかないのだから。
がんばれ日本!がんばれ福島!がんばれみんな!がんばれ自分!

ってここまで真面目に書きました。
書かずにはいられないぐらい、原爆ドームは迫力ありました。
その姿に心震えました。もっと伝えたい気持ちはあるんだけど
文章が下手でこれ以上書けません。
でもこれだけは言える訪ねて本当に良かったです。
次回も引き続き平和記念公園編です。

訪問日:2011/5/2